『横道世之介』 吉田修一

こんなにも愛おしく、懐かしい気持ちにさせてくれる物語は滅多にない。世代を問わず、誰もがその心地に酔いしれることになるだろうこの物語。

誰もが我が身を振り返りながら、自身の周りを見回しながら読み進めるだろうこの物語は、決して普遍的なありふれたものではないのに、とても素朴で心地好く温かい。

例えば誰かに出会った時。例えば誰かと別れた時。今の僕らは身を構えることなく、無知のままでいられるのだろうか。

何も持たず、何を語ることもなく、先を見据えることもできず、怖がるものもなかったあの頃の僕らを見せつけられたようだ。それも、何ら説教がましいこともなく、穏やかに一人の若者の、たった一年間をスケッチしただけの物語に。

僕はこの物語を読みながら、幾度ともなく涙を流しそうになった。それは決して悲しい物語だからではない。自身を咎められたからでもない。

ただ何となく涙がこぼれそうになるのだ。

その「何となく」は、きっと誰しもが持つ今と昔、もしくは今と未来の間にある「変化」を感じさせられるからなのだろう。何もかもが雲を掴むようで、ただひたすら何かを求め、一方で流れに身をまかすような時間であったとしても、その中には多くの変化を促す何かがあった。それに気付かされ、そして忘れていったことにきっと僕は涙を流したのだろう。

横道世之介は、どこにでもいる田舎から出てきたただの平凡な大学生だ。何か目的を持つわけでなく、特筆すべき何かも持たない、どこにでもいる平凡な若者だ。

そんな彼の一年間をたどって面白い出来事などそう滅多にあるものではないはず。なのにその中には大切なもの、時間の流れの中で、気付きそうで気付かない大事な何かを少しずつ身につけていっていることを改めて見させてくれる。

吉田修一という人はとても心理描写に長けた作家である。そんな彼が描く平凡な一人の若者の姿には、これまでの僕らには見えなかった、しかし確かに過ごしてきた実感を思い描かせる何かが宿っている。

吉田修一という、当代屈指の文筆家が描く、温かさに満ちた珠玉の物語。是非とも多くの人に読んでほしい一冊です。

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『横道世之介』 吉田修一
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